半月前のメモに加筆したもの

  ひどく寒い夜だった。4日前に関東平野に降った雪がまだアスファルトにこびりついていた。自転車のペダルを踏むたびにギアが神経質にキィキィと音を立てた。冬は嫌いじゃない。好きな季節を聞かれたらそう答えることにしている。冬には価値の転換が起こらないからだ。温かいものはあたたかく、冷たいものはつめたく感じることができる。少なくとも、少しぐらいは言葉のクオリアを信用してもいい気持ちになる。もちろん、来たるべき「なんで冬が好きなの?」の質問に備えているわけだが、価値の転換うんぬんでは長くてひどく語呂が悪い。「寒い方が好きだから」と答える。別にサボってるわけじゃない。同じ事でも様々な言い方があり、様々な正解がある。それだけのこと。

   冬がペダルの軋みを聞く聴覚的季節だとしたら、夏は視覚的季節だ。水たまりに鋭角に差し込む不安定なまでに強い日差しと、濃い青色の空に映る白飛びするほどの入道雲コントラスト。『異邦人』の主人公が引き金を引いたのも分かる気がする。あの種類の日差しは不条理の中でも影になっていた部分までよく見えるように照らしてしまうのだ。以上のことをまとめると、「夏はクーラーの効いた部屋にいたい」となる。正解。

 道がすっかり凍っていたから自転車を降りた。スリップを恐れた車がひどくノロノロと走っているのをみながら、訳もなく陰鬱な気持ちになった。時折全く説明のつかない陰鬱さに襲われる。ううん、むしろ大抵の感情は説明なんてつかない。人間は自由意志とやらを持っているそうだが、じゃあその意思を発露させているのは自分の意思だろうか?どこかに絶対操作不可能な領域がある。そうしたことまでも含めて「自由」と呼んでいるのなら、それは皮肉にも自由という言葉の実際的な意味と合っていることになる。実は操作可能な領域なんてなくて、意識というのはただ勝手に進んでいく脳内の働きのモニターであるような気もする。だとしたらモニターを見ているのは?これも意識自体だ……もうやめよう。意識が意識のことを考えるのはどうしたって同義反復的になる。でも数学だってある一つの公理系内で同値変形を繰り返していろんな発見をしている訳だから同義反復もあながち無意味ではないのかもしれない。むしろそれこそが意味を生む。様々な言い方があり、様々な正解があるというのは多分……そういうことだ。