未成年のマニフェスト

忘れること。

 きっかけさえ与えられれば思い出せた物事が、ある瞬間を過ぎるといかなる手段を持ってしても思い出せなくなる。この過程はこれまで生きてきたいつどの瞬間にも起こっていて、また経験したほとんど全ての物事に対して起こっているのにも拘わらず、気付くことはない。医学が極限まで発達すれば記憶たちが吐く息やかいた汗やあるいは排泄物に変えられていく様を観察できるかもしれない。そうなればようやく、忘れるということを否定表現を用いずに語ることができるのかな。

 ほとんどすべてのことを僕たちは忘れてしまうわけだけれど、だからこそたまたま覚えている過去のことを「ノスタルジック」とか呼んで賞美する。ノスタルジックってどういうわけで起こるのか素性のしれない感情の一つだと思う。それがいい記憶であれ悪い記憶であれ、現在の視点から再解釈をすると多かれ少なかれ美談の様相を呈してきてしまうものだ。最も素朴な仮説を立てるなら、待ち構える死の対極として記憶の中の過去をとらえているのかもしれない。最近これからのことについて考えるよう強制される機会が増えて来て、同時に過去について考えることが多くなった。その時の自分の実感としてそう思った。もの忘れが大げさなくらいに嘆かれるのは、ぽっかり空いた記憶の空間にぼんやりと死の影をみているからだ。死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。確か村上春樹とかがそう言ってたんだからまちがいない。

 この文章は未成年のマニフェストなんだから、『錯乱のニューヨーク』の冒頭みたいに後からこれまでの未成年時代に後から意味づけをしてやらなくちゃいけない。どうせなら一番暗い定義づけがしたいな。ノスタルジックな人間像に倣って、未成年者は生へと向かい、成人は死へと向かう、とかどうだろう。ネクライトーキーが「二十五を過ぎたら死ぬしかない」と歌ってたみたいに。ちょうどよく笑えるくらいにシリアスじゃない?

 それならば死ぬ準備を始めなくちゃいけない。医学の発展のおかげで、多くの場合はそれが十分すぎるほどゆっくりとできるようになった。そのかわり長すぎて死ぬことを忘れる中だるみの期間ができてしまいそうな予感がする。それだけは避けたい。死ぬことを忘れるな。とりあえず成人の目標はメメント・モリにしたいと思います。

 

 これまで生きてきて、これから死んでいく。自分はその狭間の存在であることを忘れないように。

宇宙人(と意識の人間原理みたいなもの)

「知的生命体」という言い回しに対して長らく抱いていた違和感をやっと言語化できた気がするのでメモ代わりに。

 

 

 

 意識が発露する仕組みってどうやって説明されるべきものなんだろうとずっと疑問に思っている。「よって意識は存在する。Q.E.D.」の前に書かれるべき文はどんなものなんだろう。意識が意識の存在証明をするのはゲーデルの第二不完全性定理から無理だ、と言うのもいかにもエセ論理だし、かといっていつか僕が意識です、こんにちはーみたいに脳の中から小人が出てきたって科学者たちはそいつをとっつかまえて解剖を始めるだろうから根本的な解決にはならない。よくよく自身の思考過程を観察してみるとそれが沸き上がってくる先はどうしようもないブラックボックスだから自由意志に関しては存在するかさえ怪しくはあるんだけど、意識に関しては存在するという確固たる実感がある。

 だとしたらやっぱり粒子の運動に還元して考えるしかないんだろうか。この先の説明ができたらノーベル賞だけど、そんな大層なものが思いついたわけじゃない。今の段階では(少なくとも自分の窺管では)こういう解釈もできるかもね、というアドホックな仮説です。

 

 意識が粒子の運動に還元されるしかないとしたら、十分複雑な構造を持つコンピュータは意識を持つことになるんだろうか。多分持たない、という考え方もある。なぜなら人間の脳とコンピュータとでは仕組みが全然違うから。本当にそうだろうか?逆に全然違う意識を持っているという考え方もあるんじゃないかと思った。多分あまりに違いすぎて、その中身を説明するような言葉が人間の言語には存在しえないような。一つのシステムのある所には一つの意識がある。空気の流れにも、地球にも、あなたの部分集合にも、意識は存在している。ちょっと語弊があるな。粒子たちの運動との関係において人間の意識と並列に語られるべき「何か」が存在するといったほうがいいかもしれない。でもいちいち「何か」というのはめんどくさいので、ここでは(広義の)意識と呼ぶことにする。それは人間の思考とは根本的に  本当に根本的に異なっている。「存在する」という言葉の輪郭さえ不適当なのだと思う。そしてあなたはそんな多種多様な意識のうちにたまたま生まれた一つにすぎない。そんな考え方もできないだろうか。人間のとその他一般の意識とはまさに想像を絶するほど異なっているので、似通った意識たち同士だけが互いを認識している。これを「意識の人間原理」とでも呼ぼう。そんな突飛な考えはオッカムのカミソリに反しまくっているかもしれないけれど、もし脳を解剖してもっと変な、スピリチュアルなものが見つからないのならその粒子のシステムにだけ意識が宿っているというのも不自然じゃないか。

 最高にアドホックな感じになってきたが、元はといえば「知的生命体」という言葉から出発したものだ。「宇宙の中で唯一人間だけが知的だ」みたいなうぬぼれに強烈に違和感を感じて、宇宙人ってのは人間の想像を絶するほどバラエティに富んだものであるはずだよ、と言いたかった。なんとなく伝わっていればいいんだけど。「人間がかろうじてそれが知的生命体であると認識できるもの」くらいの姿勢が正しいんじゃないかなあ。まあ言葉が人間の意識固有ものである以上あんまり意味に違いは生じないんだけれど。

 

 

半月前のメモに加筆したもの

  ひどく寒い夜だった。4日前に関東平野に降った雪がまだアスファルトにこびりついていた。自転車のペダルを踏むたびにギアが神経質にキィキィと音を立てた。冬は嫌いじゃない。好きな季節を聞かれたらそう答えることにしている。冬には価値の転換が起こらないからだ。温かいものはあたたかく、冷たいものはつめたく感じることができる。少なくとも、少しぐらいは言葉のクオリアを信用してもいい気持ちになる。もちろん、来たるべき「なんで冬が好きなの?」の質問に備えているわけだが、価値の転換うんぬんでは長くてひどく語呂が悪い。「寒い方が好きだから」と答える。別にサボってるわけじゃない。同じ事でも様々な言い方があり、様々な正解がある。それだけのこと。

   冬がペダルの軋みを聞く聴覚的季節だとしたら、夏は視覚的季節だ。水たまりに鋭角に差し込む不安定なまでに強い日差しと、濃い青色の空に映る白飛びするほどの入道雲コントラスト。『異邦人』の主人公が引き金を引いたのも分かる気がする。あの種類の日差しは不条理の中でも影になっていた部分までよく見えるように照らしてしまうのだ。以上のことをまとめると、「夏はクーラーの効いた部屋にいたい」となる。正解。

 道がすっかり凍っていたから自転車を降りた。スリップを恐れた車がひどくノロノロと走っているのをみながら、訳もなく陰鬱な気持ちになった。時折全く説明のつかない陰鬱さに襲われる。ううん、むしろ大抵の感情は説明なんてつかない。人間は自由意志とやらを持っているそうだが、じゃあその意思を発露させているのは自分の意思だろうか?どこかに絶対操作不可能な領域がある。そうしたことまでも含めて「自由」と呼んでいるのなら、それは皮肉にも自由という言葉の実際的な意味と合っていることになる。実は操作可能な領域なんてなくて、意識というのはただ勝手に進んでいく脳内の働きのモニターであるような気もする。だとしたらモニターを見ているのは?これも意識自体だ……もうやめよう。意識が意識のことを考えるのはどうしたって同義反復的になる。でも数学だってある一つの公理系内で同値変形を繰り返していろんな発見をしている訳だから同義反復もあながち無意味ではないのかもしれない。むしろそれこそが意味を生む。様々な言い方があり、様々な正解があるというのは多分……そういうことだ。

すごく都会的なもの

 前を走る列車の非常停止ボタンが押されたとかいうことで通学電車が一時停車した。よくあることだ。毎日あるってわけでもないが、盆と暮れにしかないってものでもない。

 目の前の大きな窓の外には住宅街が広がっていた。冬の真っ青な空を背景にして、アンドレアス・グルスキーの写真のように奇妙に平板だった。冷たい空気と鈍い日差しがピンのように家々を地面に留めていた。飛んでいるカラスと電車の機械音以外には、何も動かず何の音もしなかった。誰も話さなかった。皆それぞれスマホか割り当てられた空中の一点をじっと見つめていた。すごく都会的だ。全ての物語が他の何とも交わることなく平行に進んでいく。昔なにかの本で見た19世紀に空想されていた高層ビルのことを思い出した。一階には広い庭付きの一軒家があり、人工の太陽と空があり、一家族が住んでいて犬を飼っている。二階には学校があり、三階には牧場があり、四階にはまた別の家族が住むといった具合だ。それぞれのフロアはそれぞれの物語と論理で動いていく。こんな非合理な配置にするわけがないから本にあったものとは細部は違うだろうが、要するにクソでかいビル。あれは何の本だったっけ……

 カラスがもう一羽ゆっくりと横切った。 家々の様子は僕に太古の昔この地でぼこぼこ沸き立っていたマグマを思わせた。もちろん実際に見たことなんてないしマグマのことなんて何も知らないが、きっと水が沸騰する様子よりもゆっくりと沸き立つだろうという気がした。一つの泡がぽっかりと膨らみ、徐々に冷えて黒くなっていって周りに沸き立ってきた別の泡たちに飲み込まれて消える。それがしばらく続くと植物たちがわさわさ生えてきては朽ち、次に動物たちがわらわら現れては死に、人間が現れると家々がぼこぼこ建っては壊される。全ての泡は物理法則に従い浮かんでは消えていくだけで他の泡と会話を交わすなんてことはなかった。全てが同じような一生を繰り返すのでそこに奥行きなんてものはなかった。すごく都会的だ。僕はそうした泡たちが全部冷えて黒くなって一つの球になり縮んでいく様を想像した。想像したところで何も生まなかったが、安全の確認が取れたから発車するという旨の放送が流れた。

 電車が動くとつり革につかまる筋肉痛の腕が少し痛んだ。そうだ、クソでかビルが載っている本は『錯乱のニューヨーク』だったかな。乗客の誰かがくしゃみをした。視点が変わると街は奥行きを取り戻した。

ブログ始めます➁  弁明

 すきあらば自分語り。この言葉を初めて使った人はきっと頭がかなり良いと思う。言い表すことが必要とされている概念に言葉がぴったりハマっている。もっと適当な言い方をすれば、分節されるべき概念がキリトリ線通りにキチンと分節されているとでも言うべきかもしれない。語呂だってこの言葉を使いたい状況において最もしっくり合う程度にほどよく良い。すきあらば自分語り。

 しかし残念ながら一般的にこれは好まれる行為ではない。多分単純に大抵の人間は自分のことを話したいからだ。少なくとも誰かしらには。純粋に人の話を聞く方が好きという人は極めて少ないと僕は思う。そう見えたとしても、きっと自分に心を開いていないか、聞くことに徹しなければいけない事情があるか、それともどのような意味であれ一定程度打算的な意図があるかのどれかだと解釈している。そう、たしかに偏屈な見方だ。書きながら自分の偏屈さをそこまでさらけ出すことはないじゃないかと思ったりした。でも、否応無く時間的に(あるいは空間的に)移動し続けなければならない人間は自分の頭を通りすぎる由無し事をどこかにはとどめておきたいはずだ、という感覚は分かってもらえるだろう。その行為は絶えず時間に流され続ける人間の自分自身に向けての存在証明の役割を果たすかもしれないし、自分が死んだ後には何も残らないという無力感から目をそらすための一時的なエンターテイメントになるかもしれない。いや、その見方も偏屈で仰々しすぎるな。少なくともそれは芸術にも職業にも言えることだから、自分語りについて語るにあたってあまりに適当じゃない。もっと軽く考えよう。学生の冗談くらいに。

  すきあらば自分語り。含意されているのは文脈を意図的に好都合なように捻じ曲げたことによる場違い感であって、いわゆるKYとはちょっと違う。KYはあくまで文脈を読む能力が無いだけであって幾分無邪気だ。純粋に人の話を聞く方が好きそうに見える人の中には、「自分語り」の打算的で邪悪なニュアンスを感じ取って意識的に話すのを押しとどめている人もいるだろう。うん。この見方の方がだいぶ健康的だ。

  僕がブログを書くこと  そうこれは極めて個人的な話であって、ブログを書く行為一般について考える気は全くない  は、この意味でどれほど邪悪なことなのだろうか?ここまで読んだ人ならわかるはずだが、僕が普段考えることには中身が全くない。議論がどこにもたどり着かない。少なくとも実用的な側面というのは微塵もない。こんな空っぽの思考が日常生活の些細な出来事でトリガーされ、大体は同じような道筋をたどるのだ。まるでシーシュポスの神話みたいじゃないか。ブログはそれを放り込むゴミ箱だったりニューロンに流れる電流のアースとして使えるかもしれない。存在証明としてのゴミ箱だったりエンタメとしてのアースになるかもしれない。それを誰でも読める状態にしておくというのはなかなか邪悪なことだ。何をだらだら書いているのかというと、それだけ僕が普段の頭ん中の空虚さと自分の文章の稚拙さで色々こじらせてしまったということである。つまり何が言いたいかというと、何はともあれだらだらとブログやってみますということだ。シーシュポスの仕事が無意味だとしても、運び上げた岩を火口に投げ捨てて毎回違う岩を運ぶことになったならば彼は幾分幸せな生活を送れるだろうから。

ほら、中身が全くない。

ブログ始めます

 いくら周りに流されるばかりで生きているような学生でも、普段考えていることの一つや二つくらいある。大抵はほんっとうにくだらなかったり、本人は大真面目でもとんちんかんなことだったりする。でもそういうものに限って頭の中をぐるぐる回ってただでさえ少ない脳の容量をさらに圧迫したりする。そういうのを無遠慮に垂れ流せる場所が必要なのだ。アイデンティティ確立に失敗しつつある思春期の姑息な工作。

 

 あまりに人目に触れない日記みたいなものでは気が済まないというのがまためんどくさい。でもTwitterに長文を流して見る人の時間を奪うのも気がひけるという奇妙な美意識があったりする。ばかみたいだ。その点ブログというのは形式上誰でも読めるものだし、Twitterに流してもリンクを踏む1ステップが必要だというちょっとした安心感がある。ふむ。やってみようじゃないか。

 

 僕の人生に何回かある(そしてこれからも何回もあるだろう)奮起イベント同様、そんなに長く続くものじゃないはずだ。しばらくの間、長い通学時間と短い睡眠時間で溜まった澱を吐き出す場にすれば良い。いや、自分のものぐさをナメてはいけない。これが最初で最後の投稿になる可能性も十分すぎるほどにある。本当にばかみたいだ。