ブログ始めます➁  弁明

 すきあらば自分語り。この言葉を初めて使った人はきっと頭がかなり良いと思う。言い表すことが必要とされている概念に言葉がぴったりハマっている。もっと適当な言い方をすれば、分節されるべき概念がキリトリ線通りにキチンと分節されているとでも言うべきかもしれない。語呂だってこの言葉を使いたい状況において最もしっくり合う程度にほどよく良い。すきあらば自分語り。

 しかし残念ながら一般的にこれは好まれる行為ではない。多分単純に大抵の人間は自分のことを話したいからだ。少なくとも誰かしらには。純粋に人の話を聞く方が好きという人は極めて少ないと僕は思う。そう見えたとしても、きっと自分に心を開いていないか、聞くことに徹しなければいけない事情があるか、それともどのような意味であれ一定程度打算的な意図があるかのどれかだと解釈している。そう、たしかに偏屈な見方だ。書きながら自分の偏屈さをそこまでさらけ出すことはないじゃないかと思ったりした。でも、否応無く時間的に(あるいは空間的に)移動し続けなければならない人間は自分の頭を通りすぎる由無し事をどこかにはとどめておきたいはずだ、という感覚は分かってもらえるだろう。その行為は絶えず時間に流され続ける人間の自分自身に向けての存在証明の役割を果たすかもしれないし、自分が死んだ後には何も残らないという無力感から目をそらすための一時的なエンターテイメントになるかもしれない。いや、その見方も偏屈で仰々しすぎるな。少なくともそれは芸術にも職業にも言えることだから、自分語りについて語るにあたってあまりに適当じゃない。もっと軽く考えよう。学生の冗談くらいに。

  すきあらば自分語り。含意されているのは文脈を意図的に好都合なように捻じ曲げたことによる場違い感であって、いわゆるKYとはちょっと違う。KYはあくまで文脈を読む能力が無いだけであって幾分無邪気だ。純粋に人の話を聞く方が好きそうに見える人の中には、「自分語り」の打算的で邪悪なニュアンスを感じ取って意識的に話すのを押しとどめている人もいるだろう。うん。この見方の方がだいぶ健康的だ。

  僕がブログを書くこと  そうこれは極めて個人的な話であって、ブログを書く行為一般について考える気は全くない  は、この意味でどれほど邪悪なことなのだろうか?ここまで読んだ人ならわかるはずだが、僕が普段考えることには中身が全くない。議論がどこにもたどり着かない。少なくとも実用的な側面というのは微塵もない。こんな空っぽの思考が日常生活の些細な出来事でトリガーされ、大体は同じような道筋をたどるのだ。まるでシーシュポスの神話みたいじゃないか。ブログはそれを放り込むゴミ箱だったりニューロンに流れる電流のアースとして使えるかもしれない。存在証明としてのゴミ箱だったりエンタメとしてのアースになるかもしれない。それを誰でも読める状態にしておくというのはなかなか邪悪なことだ。何をだらだら書いているのかというと、それだけ僕が普段の頭ん中の空虚さと自分の文章の稚拙さで色々こじらせてしまったということである。つまり何が言いたいかというと、何はともあれだらだらとブログやってみますということだ。シーシュポスの仕事が無意味だとしても、運び上げた岩を火口に投げ捨てて毎回違う岩を運ぶことになったならば彼は幾分幸せな生活を送れるだろうから。

ほら、中身が全くない。